白き翼のフラジール ep.03

外に出るとまだ少し肌寒い春の夜風を受けてそよそよと髪が凪ぐ。多少雲があるものの、その隙間からは星の光が覗いていた。そして、じっと空を見上げる少年が1人。
――あの物語を読んでから何年経っただろうか。星の見える日はいつもぼんやりと星を眺めている彼。彼は何を思っているのか。
「クリス。その格好だと風邪ひくぞ」
「アンヘル……うん、ありがと」
振り返った彼に持ってきたブランケットを差し出すと、彼は少し微笑んだ。そして彼の隣に腰掛ける。綺麗に刈られた芝はひんやりとしていた。
「また、流れ星を待ってたのか」
「ん?……うん」
何となく尋ねると訝しげに彼が答える。それもそうだ。分かりきった事を何故訊くのか、という表情をしていた。
クリスが夜空を見上げている理由は明白だ。願い星。誰でも知っているポピュラーなおまじない。
流れ星に願掛けをするといつかその願いが叶う。
もちろんそんな事はただの迷信で、あの頃と違って彼ももう十四になるのだからそれぐらいは分かっているだろう。
でも、分かっていてもなお、諦めきれない。願わずにはいられない――いや、現実が受け入れられないのだ。俺が竜と人間の寿命差、両者を隔てる無慈悲な壁から目を逸らそうとするように。
『現実に目を向けられない?彼の優しさを拒絶する事が怖いの?』
心の中で彼の言葉を反芻する。そこには嫌だ、嫌だ、と耳を塞ぎ、目を塞ぎ、自分を守るために口をも閉ざす自分がいた。
そうだ、我儘なのだ。自分は。
しかし、やはり。このままではいけない、と思ったから。
「クリス……もう、止めてくれないか」
そう、そっと彼に告げると彼が金色の目を見開きこちらを見る。思わず目をそらしてしまった。
「え、何。いきなり」
「昔、君は俺とずっと一緒にいてくれると言っただろう。……無理だよ、クリス。どうしたって俺は竜で、君は人間で……それは変わらない。変えられない現実だ。だから、もう……あんな事を言うのは止めてくれ」
堰を切ったように言葉が溢れ出る。彼を傷つけない言葉を探してみたが、それは結局見つからなかった。自分の言葉が鋭利な刃物となって彼に突き刺さるのが、彼の表情から、震える声から感じられた。
ごめん。ごめん、と心の中で繰り返す。こんな事は言いたくなかった。……彼を傷付けたくないから?違う。自分が傷付きたくないから。
「どうして。どうして、そんな事……僕だって、分かって……っ」
と、そこで言葉を切り彼はふっと背を向け走り去る。――ああ、壊れてしまった。叶うはずもない願いと幻想によって築かれた揺籠は、自分を守る硝子の殻は、ガラガラと音を立て呆気なく崩れ去った。

木々の間で鳥が鳴いた。
はっと我に帰った時にはもう遅い。言ってしまったことは取り返しがつかないのだ。彼がかつて俺に言ったように。深々と突き刺さった刃物を抜くのは容易ではないのだ。
「はぁ……」
追いかけるべきだろうか。いや、彼が走り去った方にはあいつの家がある。またあいつに頼ってしまうのは少々情けないけれど、仕方がない。
ぽつ、ぽつと雨が降り出す。空を見上げると小さな雨粒が顔に当たる。随分とあやふやで、変わりやすいものだ。天気も、自分の意思も。

***

雨が窓を叩く音に混じりコツ、コツ、と。誰かが窓を叩く。あいにく家主は長風呂しているから、代わりに自分が出ることにした。
「……あら、図書館の」
カーテンを開けると窓越しに白梟と目があった。確かクリスが飼っている梟だ。片足が塞がっているのでもう片方の足で低木の枝に止まっている。ガラガラと音を立てる窓を開け、招き入れるとそれは暖炉のそばのロッキングチェアの背に留まった。そしてこちらをじっと見つめてきたので彼が片脚で器用に掴んでいた手紙を受け取った。それは手紙、というには短いもののようで、小さな紙が筒状に丸めてあるものだった。
と、後ろから声が掛かる。
「ああ、あいつじゃなかったんだ。お客さん?」
風呂上がりの家主が首にタオルを巻きながらひらひらと手を振る。まだ乾ききっていない白髪からはぽたぽたと水が落ちていた。
「あ、ヒューゴ。お手紙、多分あなたに」
「あら、本当だ。よく分かったねぇ、僕宛てだって」
彼は渡された手紙に巻いてある紐を解き開くと、感心したような顔をする。
「アンヘル、言うことがあるなら直接話に来る人だもの。だからこんな時間にわざわざ伝書……梟?っていったら……そうだ、きっと急にお腹が痛くなったんだわ。でも私、薬は作れないですから」
「ははぁ……大体合ってる。うん。急用っぽいけど、どちらかといえばお腹より頭を痛めてそうだよ、彼。……ケンカしたんだってさ」
「まあ。クリスと?」
珍しい。と思った。あの人が喧嘩だなんて。普段穏やかな口調で喋るあの人が声を荒げる所だなんて全く想像できなかったから。
「そ。ビックリだよねぇ……ちょっと思い当たる節はあるけれど。じゃあ、その辺を探してこようか。お留守番は頼んだからね。よろしく」
そう言って彼がタオルを放りコートを羽織り玄関を開けると、そこに――いた。
クリスが。雨で髪を濡らし、うつむいていた。
「うわぁ、そんな幽霊みたいな格好して。入って。ほらほら」
驚いて思わず一歩退いたヒューゴだったがすぐに彼を部屋に招き入れる。そして手近にあったタオルを差し出そうとするが。案の定湿っておりすぐ手放したので代わりに自分が取りに行く事にした。
「今、新しいの持ってきますからね」
と、言ってぱたぱたと洗面所にひっこんだ。

***

「自分でやるからいい」と、彼はぶっきらぼうに言い放ったけれど。あえて無視してワシャワシャと髪を拭いてやる。
以外にも大人しくしている……と、くしゅんとくしゃみをしていたのを見兼ねて「こうすると暖かいでしょ」と抱きしめると少し間が空いて、押しのけられた。
「馬鹿、変態」
「ええ……酷くない……?」
そう言って明ちゃんに助けを求めるように視線を投げかけたけれど――物凄く冷たい視線を返されたので見なかったことにした。

そして暖炉の前で温まりながら彼が着替えるのを待っているとシュンシュンとケトルから湯気が吹き出す音がする。
様子を見に行くと、丁度彼女がティーカップを2つ用意しているところだった。
「ありがと。あとは自分でやるから大丈夫だよ。……明ちゃんのは」
「私、難しい事は分からないわ。だから遠慮しておきます。さっきのお返事は私が書いておくから」
そんな事を言いつつ、ぱたぱたとスリッパの音を立てながら寝室に引っ込んだ。それは遠慮、だとか気遣い、だとか。そんな感じのものだったのだろうか。彼女は人の深い部分には足を踏み入れようとしない。彼女が慎重すぎるのか、それとも自分がお節介なのか。きっと後者だろうけれど。それでも放っておけなかったのだ。と言うと綺麗事を言おうとしている様に聞こえるのだろうか。


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