白き翼のフラジール ep.04

カチャ、とティーカップを置く音と暖炉の火が燃える音だけが夜の静寂の中に響く。雨はいつの間にか霧になり、木々のざわめきをも搔き消していく。
「はい、おまたせ。で、何かあったの」
暖炉の前で膝を抱え込んで座っている彼に尋ねてみるけれど。彼はただ黙って、暖炉の火が暗がりの中で煌々と揺らめく様を眺めていた。パチパチと火花が弾け薪が燃えてゆく。
「……別に、話したくないならいいけど。でも明日には帰ってもらうからね。きっとアンヘルも今頃寂しがってるよ」
そう言うと彼はパッとこちらを振り向く。しかし目が合うとまた俯いてしまった。戻りたくない、という不安とアンヘルが自分の事を必要としてくれているかもしれない、という期待の入り混じった表情だった。そうして彼は沈黙を保ったまま、暫く静寂が続いた。……ふと、紅茶を飲んだ彼が呟く。
「にっが……」
「あら、何か入れる?」
「いらない。あいつの淹れた紅茶の方が美味しいな」
「うわぁ、ひっどい」
砂糖を取りに行こうとした僕を手で制して、ついでに毒を吐く。突然転がり込んできた割にはかなり図々しい。けれどもまぁ、仕方がない。いつもの事。
今のやり取りがきっかけになったのか再び彼の隣に腰を下ろすと、ぽつ、ぽつと彼が語り始めた。
「あいつに嫌われたかもしれない……いや、前から嫌われてたのかもしれないな」
何を言われたのか。アンヘルはそんなに酷い事を言ったのか?いや、きっと彼に悪気は無かったのだろう。あれは聡明で穏やかな筈なのに不器用故に無愛想な奴だと言われるタイプだ。だからただ言葉選びを間違えただけだろう。けれども些細な間違いも純粋で多感な少年の心には鋭利な刃物となって突き刺さる。だから僕は努めて優しい声で、その傷にそっと触れるのだ。
「どうしてそう思ったの?」
「昔、アンヘルが人が死ぬのを見るのは寂しいって言ってたから……僕が竜になってずっと一緒にいればいいんだ、って言ってたらそういう事を言うのは止めろって言われた」
やっぱり彼は不器用な男だった。一言も二言も足りない。自分の気持ちを伝えるのが下手なのだ。いや、きちんと伝えられたところでこの少年が傷つくのには変わりないと思うけれど。
「ふふ、そっか。うん。アンヘルは君の事が嫌いだからそんな事を言ったんじゃないと思うよ。彼はきっとこう言いたかったんじゃないかな。人間と竜の寿命差なんてどうにもならない事だからそんな事を考えるのは止めて、自分の事も諦めてくれ……ってね」
「……知ってる。そんな事は、どうにもならないって事ぐらいは知ってる。でも、少しぐらい夢見たっていいじゃないか……それに、この世界は」
「この世界ではごく稀に奇跡が起こる、でしょう?うん。それは事実だ、実際にこの眼で見たんだから間違いないよ、それは。……どうしたの?君も信じてるんでしょ。"奇跡"の事」
言いかけた彼の言葉を遮って続ける。

やはり、彼は信じているのか。かつての自分のように。信じなければいいのに。信じたところで救いなど無いのだから。
「実際に……って、本当なのか?本当に"奇跡"が起こったのか。お前は知ってるのか。だったら……僕に教えてくれないか、奇跡を起こす方法を!」
ああ、嫌だ。どうしてそんな事を言うんだ。何も知らなかった、何も考えていなかった愚かな自分が目の前に現れたようだ。誰かのために、と先の見えない暗闇の中でもがいていた時に差し込んだ一筋の光。今、彼の瞳にはかつて僕が見たものと同じものが映っているんだろう。けれどもそれは希望ではない。もっと醜悪で、汚い――そんな物に触れさせてたまるか。
「うん、いいよ。奇跡を起こす方法は2つある。1つは自分の――いや、もっと沢山の命を捧げる"呪術"。もう1つは……悪魔召喚。奴らが何を要求してくるかは分からない。代償は奴らの気分次第で決まるのさ。でも、大抵碌なことにならない」
「えっと、でも気分次第、なんだろ?だったら、上手くいけば……」
「クリス。どうして君は……ううん、分かった。そんなに言うんなら、彼の事を諦めきれないなら、僕が今ここで君を竜にしてあげるから」
「え……」
彼が目を見開き、体ごとこちらを振り向く。その瞬間、暖炉の前に置いてあった鉛の火掻き棒を手に取り「変形」させる。ついでに暖炉の火もすくい取って刃に纏わせる。そうしてただの火搔き棒は炎を纏った剣、完全なる「凶器」となる。
それを彼の喉元に突きつけ、先程とは打って変わって冷ややかな声で告げる。
「クリス。願いを叶えるには相応の代償が必要だ。四肢、視覚、聴覚、どれでもいい。いや、僕なら……悪魔の力を持ってすればお前の全てを奪う事もできる。お前は何を捧げる?アンヘルの為に何を捧げられる?」
物体の性質変化、変形。力の顕現。大きな代償の果てに得た、叶わなかった願いのなれ果ては幼き少年のささやかな願いを壊すには十分すぎた。
その「力」を突きつけると彼は眼を見開き、息を呑む。目の前にいるのはただの竜だというのに、彼の顔には恐怖の表情が張り付いていた。

「……できないでしょう。覚悟も無い癖に」
「あ……お前、は……」
「僕は悪魔ではないけどね。……僕はね、悪魔の力を借りる代わりに自分の魂を差し出したのさ。僕を生かすも殺すも彼次第。死ぬまで契約は破棄できない。まあ、僕は彼に"気に入られた"みたいだから殺されたりはしないと思うけどね」
悪魔ではない?果たして本当にそうだろうか。自分のした事は――いや、止めよう。今は考えたくない。
ふと浮かんだ疑問をすぐに振り払う。
「ふふ。運が良かったんだ、僕は。契約で命を落とした人達に比べれば全然マシな方だ。それでも嫌なものだよ。奴らはいつだって僕の事を見てるのさ。逃げ場なんてどこにも無い。……そんなものだよ。確かに強く願えばその願が叶う事もあるかもしれない。けど願いに代償はつきものだ。アンヘルは代償を背負ってまで自分に尽くして欲しくはなかっただけ。ただそれだけの事。彼はね、君の事が大好きなんだ。だからこそ、君を突き放すような事を言ったんだ、きっとね」
きっと彼は心の中でそう思っていたのだろう。けれどもそれを告げる勇気は無かった。自分の事を思ってくれている人を傷付けたくなかったし、なにより自分が傷付きたくなかった。本当にそうかは分からないけれど。多分、彼はそういう人だ。
「だから、彼の気持ちを無碍にするような事は止めて。もしそんな事をしようとするなら――たとえ神様が許しても僕が許さない」
言葉が止めどなく溢れてくる。もはやこれは誰の為の言葉なのか分からない。「彼」のためか、それとも自己満足のためか。
ああ、僕は何者だ。彼の全てを知っているわけではないのに。彼が何を望んでいるかも分からないのに。僕は彼の何なんだ?

――ぽた、と金色の瞳から涙が零れ落ちる。
「……そう、なのかな。……でも、そうしたら僕は何をすればいいんだ?」
縋るような声で彼が尋ねてくる。その姿はあの時の自分に少しだけ似ていた。何をすればいいんだ――何と言えばいいのだろうか。
結局自分に出来ることと言えば、そっと涙を拭いながら微笑むことぐらいだった。
「無理しないで。君は側にいるだけでいいんだよ。それだけでも、彼は充分幸せだから」
そう言って頭を撫でると彼がぽすん、と腕の中に飛び込んできた。頭を撫で続けていると、すん、と彼が鼻をすする音が聞こえた。

***

草道を進んでいく彼の背中をぼうっと見ていた。朝露が跳ね、足首を濡らす。
家に近づくにつれ段々と憂鬱になる。このままあいつの顔も見ず、言葉も交わさないでいれたらいいのに、と思っている自分がいることがショックだった。あいつのことは嫌いではないけれど、好きだけれど。彼の姿を見たらちくちくと心が痛みそうだ。
『覚悟もない癖に』
彼の言葉が何度も頭の中に響き渡る。吐き捨てるように彼が言った言葉。
他人のために自分の全てを捧げる覚悟も無いまま、ただ自分の理想ばかりを見続ける人間。彼はそう感じたのだろうか。

けれども。それでも彼は最後まで話を聞いてくれた。きっと大人が聞いたら笑ってしまうような子供の戯言を真剣に聞いてくれたのだ。
「……クリス。さっきから僕の事見過ぎだよ?どうしたの」
立ち止まって彼が振り向く。考え事をしていた所に唐突に声をかけられ、一瞬動きが止まる。そして、ふと思い浮かんだ疑問を口にする。
「なあ、どうしてお前はそこまでしてくれるんだ?放っておく事も出来ただろ」
「うん……君もアンヘルも繊細そうだから。放っておけなかった。これは善意とかじゃない、自己満足のためだよ。君が昔の僕みたいな事を言い出したから……ごめんね。昨日は酷い事を言った。でも君には綺麗なままでいて欲しかったんだ。痛い目を見るのは僕だけで十分なのさ」
そう言ってまた彼は歩き出す。おそらく彼は救いようがない程のお人好しなのだ。言葉は刺々しいけれど。見返りを求めずただ手を差し伸べ続けるのは、辛くはないのだろうか。それで彼は幸せになれるのだろうか。いや、彼は幸せになる事などとっくに諦めているのかもしれない。幸せになる資格など無いと思っているのかもしれない。僕は彼の過去を知らない。彼が何をしたのかも知らない。けれどもなんとなく、彼は後悔しているように見えた。
「……ありがと」
返事は無かった。投げかけた言葉は彼に伝わっただろうか。
少しでも、救いになっただろうか。

***

床板がギイィ、と音を立てる。
「う、うわ」
帰ってきたはいいものの、どうすればいいのか。両親は仕事へ行っているのか家の中はしんとしていた。廊下に誰もいない事を確認して寝室へと向かう。できるだけ、足音を立てないように。
「クリス?」
後ろから唐突に声をかけられ硬直する。いつの間に。いつの間にそこにいた?ゆっくりと振り返る。
そこには白い竜の彼。何も無かった事にしていつも通り接しようと思っていたけれどいざ対面すると表情が強張る。
僕の反応に傷付いたのか、昨日のことを考えているのか、いつもは地面に平行な眉が今日は若干下がり気味になっていて普段から辛気臭い顔はさらに辛気臭さを増していた。
「クリス」
「な、何」
「紅茶……飲むか」
「……はぁ」
深妙な顔をしながら出てきたのはいつも通りの台詞だった。

暫くして、アンヘルが紅茶を持ってきた。カップをテーブルに置くと僕の向かい合わせに座る。いつもは隣に座るのだが。
一晩いなかっただけなのに随分と久々な感じがする。いつもより濃いけれど暖かい紅茶を飲むと少しだけ落ち着いた。
「……昨日は、すまなかった」
先に彼の方が謝ってきた。勝手に怒って飛び出して行ったのは僕の方なのに。慌ててティーカップを置くとカシャン、と行儀の悪い音が鳴る。
「ま、待って。どうしてお前が謝るんだ?お前は何もしてないじゃないか」
「何も……そうだな。何もしなかった。何も言わなかった。……クリス。君は心の底からそう思って、俺の事を思ってそう言ってくれたんだろう。だから人間が長く、永く生きることなんてできるわけがないだろうって、そんな事は言えなかった」
歪んだ表情を隠すように彼が両手で顔を覆う。少しだけ覗いた口元から絞り出すような言葉が漏れる。
「君を傷付けたくなくて何も言わなかったのに、結局酷いことをしてしまった。……俺はどうすればいい。どうすれば君を傷付けずに済む」
衝撃的な言葉だった。彼はずっと自分の事ではなく、僕の事を考えていたのだ。いてもたってもいられなくなって、彼の前に跪いて顔を覗き込んだ。
「アンヘル。ごめん。……ありがとう」
そう告げると彼はハッと顔を上げる。涙が一筋、頬を流れ落ちて行った。きっと、僕のために流した涙だ。
「大丈夫。分かってる。確かに昨日はびっくりしたけど……でも、僕のわがままのせいでアンヘルを悩ませるのは嫌だから」
そっと彼の手を握ると、熱が伝わってくる。重なり合う手を見つめる。この手が冷たくなるよりもずっと先に僕の手が冷たくなる。それは仕方の無いことなのだ。
「だから、忘れてくれないかな。僕が昔言ったこと」
「え……?」
「僕は人間で、アンヘルは竜。それはどうしたって変えられない。ごめん。お前とずっと一緒にはいられない。ずっと認められなかったけど、仕方の無い事なんだよな。……だから、僕の為に泣かないでくれ。悩んだりしないでくれ」
そう言って顔を上げると彼は少しだけ、寂しそうな顔をしていた。そして、何か言おうとする。
「本当に、君が……」
「アンヘル?」
途切れた言葉の先を問おうとすると彼はふっと微笑んで、そっと頭を撫でてきた。
「……ん、何でもないさ。うん、すまないな。気をつかわせてしまった」

言いかけて、飲み込んだ言葉は何だったのだろうか。
――本当に、僕が竜だったらよかったのに。

きっとそんな事を言ったらまた彼を困らせてしまうから。本当の気持ちは心の奥にしまい込んでしまおう。

彼のために。


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