白き翼のフラジール ep.02

カチャ、とティーカップを置く音と鳥の声だけが静寂の中に響く。何か話す事は……無いな。
いつも家を訪ねるのは俺の方だが、大抵彼が話を振ってきて俺がそれに応える形になるので俺から何か話すということはあまり無い。
土産話も無しにしょっちゅう他人の家にあがりこむのはどうなんだという突っ込みが来そうであるが家であるヒューゴは「会いに来てくれるだけで嬉しい」と言っているのでおそらく迷惑がられてはいないと思われる。大丈夫だ、多分。
会話が無くとも、ただ自分の側に誰かがいるという事に安心感を覚えるのは俺と彼の共通点の1つであった。しかし、普段はやいやいとよく喋る彼が今日はずっと黙ったままである。珍しい。
そうして俺も彼も口を閉ざしたまま、ただ刻々と時が過ぎて行く。
「はぁ」
彼が深い溜息を吐いた。普段はへらっとして悩みなど何もなさそうな素振りを見せている彼が。これまた珍しい。
「何だ、疲れてるのか?」
「んー、うん」
うんうんと唸りながら肯定なのか否定なのか、曖昧な返事を返す。
「今日、オディーリアの命日なんだよね」

彼の昔話はいつも唐突に始まる。その上聞いた後にやるせない気分になる話ばかりなのだが不思議と彼への嫌悪感が湧かないのは同情からか、彼の無駄に有り余る行動力への憧れか。
「ああ、彼女の……」
オディーリア。いつか彼の昔話で聞いた名前。
元々病弱な少女だったらしいが彼女が亡くなったのは自分のせいだ、と彼は言っていたが。真実は解らない。彼が今の俺よりも若かった頃、つまり俺が生まれる前。ずっと昔の話だから。
それは不思議な話だった。悪魔――人の願いと情念により顕現する魂の無い生き物。彼は"それ"を見たと言うのだから。童話のような、信じがたい話。……童話にしては救いが無さ過ぎるかもしれないが。
「あぁ、それでか。それにしても、あの話から200年も経ってるっていうのによく覚えてるな?」
信じがたい話ではあったが、彼が嘘をつくような人だとも思えなかった。
「そりゃあ、忘れられないっていうか……自分のした事を忘れないでいることぐらいしか僕にはできないから」
忘れられない。鉛のように重く冷たい、悲しい過去が心の中にずっと残って消えないというのはとても辛いことだ、と思っていたから。つい、口を滑らせてしまう。
「忘れられたら、楽なのにな……あ」
気付いた時にはもう遅かった。辛いことは忘れた方が楽になれるなんて誰でも分かる。彼もそれは分かっているはずだ。しかし、それでも。彼にとっては"忘れずにいる"という事が死者への、オディーリアへの手向けなのだ。
「あ、いや、今のは」
慌てて訂正しようとした俺を制して彼はふっと微笑む。
「ふふ、別にいいよ。気にしてないし。ねぇ、忘れたい事があるんだよね。君には。昔何かあったの?」
……ああ、俺の言葉の端々から俺の考えている事を確実に言い当ててくる。自分の事を話すのが苦手な俺にとって彼の勘の良さはありがたいものであったけれど、それは時に鋭利な刃物となって心に刺さる事もあった。
「昔、俺がまだ子どもだった頃……マルタに行った時、母さんとはぐれて迷子になった事があってな。その時当時の俺と同じぐらいの子供が声をかけてくれて、一緒に母さんを探してくれたんだ。それからそこに滞在している間は毎日、彼に色んな所に連れて行ってもらった。……初めてできた友達だった」
ぽつぽつと話しているうちに少しずつ脳裏に浮かんでくる光景。青い空、碧い海。知らない街を彷徨う幼き自分に手を差し伸べる金髪の少年。
未知の言語によって紡がれる少年の言葉はあまり理解できなかったけれど。きっと目に見えない何かが自分達を繋ぎとめていたのだと思う。言葉ではない何かが。
「それから色んな国を周って、暫くしてまたマルタを訪れる機会があって……彼に会える、何を話そうか、俺の事を覚えているだろうか、土産物は何がいいか、なんて。色々考えてたんだけどな」
俺がそこで言葉を切ると、彼は何かを悟ったように目を伏せた。そう、竜であれば分かるはず。竜と人間との間にある見えない"壁"の正体。

「その時にはもう、彼は亡くなってた。彼は人間だし、俺たちよりもずっと短命なのは分かってたはず、だけど……実際それを目の当たりにするとな。結構、ショックだったんだ」
「うん、うん。そっか」
うんうん、と彼が相槌を打つ。……何故俺はこんな事を話しているのか?ただでさえ重い空気を更に重くさせてしまった事を後悔する。もう少し明るい話をできなかったものか。
「すまないな、俺ばかり話して」
「ん?ああ、いいのいいの。話せば楽になるんだったら何でも話して。本当、僕には聞くぐらいしかできないから……」
「……そうか、ありがとう」
果たして、楽になったかどうかは分からない。あれから100年以上経っているが未だに胸のつかえは取れないし、きっと誰かに話したところでどうにもなるとも思えないが。こうやって気遣ってくれる事に対して若干の申し訳なさもあるけれども、俺はいつもその優しさに甘えてしまう。つい、差し出された手をとってしまうのだ、あの時と同じように。
「彼がもし……人間じゃなくて竜だったのなら、何かが変わっていただろうか」
「さあ、どうだろうね。……アンヘル。夢を見るのもいいけど、ほどほどにね。願いっていうのは悪いものを引き寄せる事もあるから。僕の話でよく分かったでしょう?」
「あ……あぁ、そう、だな。でも俺は悪魔を喚んだりなんかは……」
「そっちじゃなくて、クリスの方」
クリス?どうしてクリスが――

「竜と人間の寿命差はどうにもならないものだって、君が一番よく知ってるでしょ?だから教えてあげないと……っていうかさぁ、アンヘル。どうして最初に彼の"願い"を聞いた時、その事を教えてあげなかったの」
スッと彼の声が冷たくなるのが分かった。
「まだ、どうにかなるものだと思ってるの?現実に目を向けられない?彼の"優しさ"を拒絶することが怖いの?」
暫く口をきくことが出来なかった。突然後ろからガツンと殴られたような衝撃を感じたから。……彼の言うとおり、俺はぬくぬくとした"現状"から抜け出せずにいた。彼を、彼の純粋な優しさを拒絶することが怖い。まだその優しさに甘えていたい。けれど、このままでは……
「あ……ごめん。ちょっと言い過ぎたかも……アンヘル?アンヘル。おーい」
彼が手を伸ばしひらひらと振る気配がした。ハッと我に返り顔を上げると彼と目が合う。先程のような冷たさはすでに消え、ただ、心配そうにこちらを見ていた。
「……そうだな。そうだ。ああ、俺の方こそすまないな。こんな事を言わせてしまって……」
「ふふ。君、今日は謝ってばっかり」
「そうか?」
「うん。そうだよ」
そう言って彼はふふ、と笑ったけれど。俺の方はというとまだ心につかえたものが取れないので既に冷めきった紅茶をぐい、と喉に流し込んだ。
そうして「はぁ」と深い溜息を吐いたのだった。


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